ナウパカの宿 大田浩右

Dr. Oota 1938


ナウパカの花は結ばれなかった恋人たちの化身。ナウパカの花びらは下半分だけ。

海のナウパカと山のナウパカの花びらを合わせると嬉し涙の雨が降り、恋が叶うのだとか。

ヤドカリ

ビーチはアマンダの群生とナウパカの群生が入り混じっている。

夕暮れになるとアマンダのねぐらから大型のヤドカリが浜辺にやってくる。

ナウパカのねぐらからは子供のヤドカリがやってくる。



2024年4月14日

2023年11月7日

85歳想定外のとんでもない年になった。統計学的に死亡順位は癌、心疾患を抑えて第一位は自然死老衰とのこと、老衰死に至る期間は5~6年、90~91歳が終点となる。5年前退職を逸したが今回は自分自身納得して退職することにした。福山に来て医療センター、脳神経センター大田記念病院、明神館クリニックと52年になる。備後地区ただ一人の脳外科専門医としてたくさんの手術を担当した。大過なく過ごせたのは奇跡に近いと思っている。日本で初めて術中顕微鏡手術を家族に公開説明した。厚生省から小山秀夫氏が驚き、確認に来福された懐かしい思い出がある。

 

2023年9月

定期健診のため11日聖マルチン病院受診した。幸いに異常所見なく次回翌年1月となった。

まもなく誕生月、年とともに体のバランスが悪くなる。同輩たちに転倒の話、骨折の話が多い。私は歩くには支障ないが下り階段は用心している。試しに縄跳びをしてみた。案の定着地点のズレは立派。

2023年7月

28回目のBCG膀胱注入療法を受けた。Lamm原法は27回、達成率16%、この数値からすると終りにしても良い時期となった。今後は膀胱に顔を出せば内視鏡で削る予定。

この度老友から度々誘いを受けていた彼の家のすぐ近くにあるリフォームの済んだ空き家を購入した。この白老地区に500軒あり全戸温泉がついている。広々と野性的な環境は私の人生で初めて経験する安らぎの空間、ゴルフ場も近くて素晴らしい。1㎞南にある白老漁港からとれる魚は新鮮で美味。早く来ればよかったと後悔している。

ご近所は馬場付きの元東京都知事さんの別邸、我が家の裏はエゾ鹿の通り道 鹿は普通に住んでいる。

2023年5月

ゴールデンウイークは石垣島で休息した。天候に恵まれウインテックシングルスカルを存分に楽しむことができた。

今月30日、浦安小学校6年生児童90人が大田ふるさと資料館の見学に来る。江戸時代末期から明治にかけて使われた消火ポンプ竜吐水、足踏み式水車、足踏み式脱穀機、唐箕などの実演と囲炉裏部屋での煙と煙感知器警報音を体験してもらう準備は結構大変だ。その時子供たちに配布する睡眠の話は秘書とSkypeで石垣島滞在中にほぼ仕上げることができた。

2023年4月

聖マルチン病院にて定期の膀胱内視鏡検査TURを受けた。2月20日27回目のBCG膀胱注入療法にて達成率16%のLammn法を終了した。内視鏡の結果は予想通り異常なかった。

 

2023年1月 近くにある廃村ヒュッタ

ナウパカの宿の西隣に廃村ヒュッタがある。県道からも浜辺からも入ることができる。保存を目的とした祈祷所は村の中央にある。ナウパカの宿の東隣に昔々遺体を海辺の岩壁に安置した鳥葬の跡がある。海に戻った魂を祈祷する白衣の老婆が住んでいたという半ば崩れた粗末な家が残っている。

過去のブログ

2022年8月 パワースポット タラソの恵み

ビーチに立つと不思議なパワーを感じる。気持ちが解放され体にエネルギーが満ちてくる感じだ。抗がん剤治療の最中、弱った体に鞭打ってビーチにたどり着くと、日に日に元気を回復し1週間で別人のようになる。海に入り波に向かって胸いっぱい潮風を吸い込みゆっくりと吐いていく。毎日5分、10分、15分と海のエネルギータラソの恵みに浸る。

私が末期がんから生還し得たのは幸運が重なった結果だと思っている。幸運の一つはゲルソン食事療法と石垣の海タラソテラピーであった。詳しくは⇒闘病ブログ を参照ください。私に命を与えてくれた川平の宿は元は八重山そばを出す質素な軽食堂だった。縁あってそこを譲り受け、雨漏りの修理と改造した。白い砂浜とサンゴ礁に囲まれた青い海に面した浜辺の宿に癌で闘病中の方や再発を予防したい方をお迎えし、療養支援をしたいと思っている。 

研究室から虹を見る。

ゲルソン食は意外と美味

ゲルソン食は本場のゲルソンとは異なり日本の食材を主にした和製ゲルソンとなる。ゲルソンの基本は変わらないので四つ足動物、二足動物の肉、乳、乳製品は禁止。代わりに南の海でとれるトンボマグロ、キハダマグロなどの新鮮な刺身、北の海でとれるシシャモから必要なタンパク質を摂っていただく。主食は全粒粉のオートミール、サツマイモ、じゃがいも、豆類、季節の野菜、豆乳ヨーグルト、はちみつ、もずく、ハーブ茶。ゲルソンの基本は断塩だが一日3~6gの減塩食となる。キャベツ、ブロッコリー、セロリ、小松菜、水菜、季節によってゴーヤ、これにリンゴを加えた青汁ジュースは意外と美味しい。ニンジンジュースはもちろん美味しい。

ヘミングウェイの老人と海への憧れは昔からの思い。男一人生きるのは逞しさへの憧れでもあった。しかしゲルソン食と仕事となると一人では無理であった。気遣いは秘書と家政婦のため、体調は気圧と塩加減で変化することも理解した。人間の尊厳まで昇華しなくてよい、老醜にならないよう普通を保ち生きていきたいと願っている。

2022年9月 若い人の癌が増える

昔も若い人の癌はあった。その多くは白血病や肉腫などであった。最近は20代から胃がん、大腸がん、肺がんなど、珍しくない時代となった。若者の癌は概して進行が早い、発見時すでに進行がんのことが多くステージ4の末期も珍しくない。結婚することになった30歳の若者が念のためお互い人間ドックを受けたところ、彼の方に大腸がんと無数の肺転移が見つかりステージ4の告知を受けた。今後どうしたらいいか途方にくれ相談に来られた。同じく30代の男性IT関係の仕事をしていた。嚥下困難をきたし検査を受けたところ食道がんステージ4の末期と告げられた。治療法はないと言われ丸山ワクチンの相談に来られた。私の周りだけのことかと思っていたら、全国的な傾向のようだ。睡眠不足、運動不足、食生活の乱れは若者の免疫力を著しく低下させているようだ。

2022年11月

流雲 潮声から秋を知る 一人宿 今宵も友は 海鳴りぞ 

2022年12月 宿から朝焼けを見る。

 

 愛と救い

病で人は変わる

病に倒れ孤独を感じ

救いと愛を求める

救いとは何か 

愛とは何か

深く妄想する

愛は揺れ動き変化するもの

人は救いと愛を求め

神仏に頼る

しかし祈りは届かず

愛は手に入らず

孤独は癒されず

人は安らぎと愛を求めてさまよう

神羅万象のエネルギーに出会い

自然の愛に包まれ心癒される

2022年12月31日 

外気温21度の暖かさ、入浴介護用の首浮き輪を着けて泳ぎ納めをした。海の中は意外と暖かく、寒さは感じなかった。風でうねりがありリーフ内といえどもヒューツク川のリーフ割れ目に向かって流れがあるため、泳ぎに自信のない私のような高齢者は真似しないように。

2010年10月

尖閣諸島については、1992年中国が自国の領土と宣言して以来、中国漁船の違法操業が増えている。2010年9月7日には中国漁船が巡視船よなくに、巡視船みずきに意図的に衝突し破損させる事件が起きた。この事件を機に多くの方がいろいろな思いを込めて尖閣諸島を守る活動を進めている。石垣の小型漁船にとって尖閣は漁場としては素晴らしいが、いささか遠い島、行き難い島の印象が強い。台湾や中国の漁船は中型船が主で居座って操業する。日本の船舶規格規制によると20トン以上の中型船は機関長を必要とするため、やむを得ず機関長のいらない19トン以下の小型船となる。小型漁船では台湾の中型漁船に太刀打ちできないため、行きたくとも気が重いのが尖閣漁場のようである。漁船の規格制限という思いがけないところに尖閣諸島に疎遠になった理由があるようだ。

私も機関長のいらない中古の19トン、75フィートのいそかぜを購入した。いそかぜには操船し易いよう2階ブリッジを増設し、約1年間、難所として有名な竹富島南航路での操船訓練を重ねた。

2011年5月 巡視艇みずき

インターンの頃、巡視船のじまにシップドクターとして定点観測に従事したことがある。ゆかりのある海上保安庁の石垣保安部に健康講話などに伺っている。縁あってみずきの船長と知り合った。みずきはかつて奄美沖で北朝鮮不審船を銃撃したことで名をはせた。一度標的をロックしてしまうと外すことはないというその機関砲の前での記念撮影。国境の海を守っている海上保安官達、微力だが彼らの健康の支えになりたいと思っている。

余談だが、船長の故郷は備後で、なんと彼の父親は私の患者さんだった。縁は異なもの不思議なもの。

 

石垣島ヘリの旅

出発:福山から宮崎 350km

2011年7月11日(月)R44水上機型ヘリコプターJ×××にて教官と訓練生大田の2名で、早朝6時福山市水呑町竹ヶ端を出発した。朝薄曇り、のち晴天、気温27℃、風速6mのち8m

離陸後は、ほとんど私が操縦、教官は地図、書類、計器などのチェックに忙しく、かなり緊張の様子

高度1500フィートにて西南に進路を取る。松山空港南を通過、右手に伊方原発、いつも原発北側の洋上にいる巡視船の姿は見えない。大地に根を張ったようにたくましく林立する風力発電塔を眼下に見ながら、佐田岬半島を通過、この間、山脈の上昇気流の影響でヘリは上下左右に大きく揺れた。洋上に出ると途端に揺れが収まり九州の東海岸に到着した。何度見ても美しい日向灘を南下する、緊張しながら自衛隊訓練空域を無事回避通過する、さらに南下し、シーガイア上空を通過、美しいゴルフ場に人影が点在する、管制塔の指示により宮崎空港ライン着陸の順番を待つため約10分間高度500フィートでフォールディング。

8時17分管制官の許可がおり、宮崎空港に着陸、8時20分エンジン停止、空港でアブガス満タンまで給油。9時7分エンジンを掛け、ナビをセット、9時14分種子島に向け宮崎空港を離陸した。お役所仕事へのお付き合いは大変、単なる給油だけに約1時間を要してしまった。

福山市竹ヶ端 いざ出発

宮崎上空 シーガイアを臨む

宮崎から奄美 524km

高度1500フィートで順調に南下する、飛べども、飛べども大隅半島が見える、なかなか九州から離脱できない、九州は意外と大きな島と実感した。やっと佐多岬の先端が見えてきた、九州はここで終わりだ。

さらに南下すると左前方に種子島を確認。種子島北端から南端まで約30マイル飛行、12時07分、屋久島が右前方に見えてきた、強い向かい風をうけ予想以上に燃料を消費している。安全のため給油が必要と判断、屋久島防波堤に降りた。着陸し雄大な眺めを満喫、一休みした後、手持ちの給油缶からアブガスを入れる。空からみた防波堤はちっぽけなものだが、降りてみると意外に広く、セスナ機なら緊急着陸可能と思うぐらい立派な防波堤、なんでここに必要なの、妙なところで国の力を実感した。目の前が屋久島、前方に奄美大島が見える。晴天で波も穏やか。

 

屋久島防波堤を離陸し何事もなく順調に飛行、12時15分奄美空港に着陸。ここで再び満タンまで給油。空になった携帯燃料缶へは管制塔から見えないように給油してもらった。お役所仕事はどこも同じ。やはり給油に1時間を要した。

種子島

屋久島 防波堤にて

奄美から沖縄本島 407km 

13時15分奄美空港を離陸した。天候も良く楽勝かなと話している最中、左方向から前方に大きな雷雲が行く手を阻むように立ちはだかる。雲の下の海面は霞んで全く見えず、この巨大な雨雲につかまると、視界はゼロとなり相当に危険。果たして逃げ切れるか、大きく右旋回し、全速で逃げる!見る見る黒雲が近づくが、ヘリの風防ガラスに雨粒を被るだけで無事逃げ切った!

その後、多少の雨を被るが視界良好にて前方に徳之島を確認。

徳之島上空を通過、14時22分沖伊良部島の上を海岸線に沿って南下。前方に与論島の島々が見える。14時39分与論島上空を通過。沖縄本島の北端が見える。まずは一安心。

 

沖縄本島東海岸を南下中、かの有名な辺野古上空を旋回する、戦略要衝の地、なるほどと思う所があった。管制官と頻回なやりとり、視界に旋回中の待機飛行機が見える、意外なことにあまり待たされることなく15時30分那覇空港海上保安庁格納庫前A1スポットに着陸した。国際空港にしては異例の厚遇かも。那覇空港でも満タンになるまで給油。

那覇から石垣島 411km 

那覇でも手続きに時間を要し、1時間を費やした。16時29分那覇空港を離陸、小さな島らしい影(島の名前は不明)を右手に見ながら、南西に進路をとり350フィートの低空で波を楽しみながら飛んだ。問題は宮古島。那覇から宮古島まで220km那覇から西は教官にとって未知の空域。

 

 次第に風が強くなり、海面は白波が増え、ヘリのスピードが大幅にダウン、なんとしても日没までに石垣島に着かなければならない。焦る気持ちを乗せて1時間半以上飛行したころ、思ったよりも右方向に宮古島が見えてきた。宮古島空港に着陸する時間的余裕はない。海岸に着陸を試みるがローターの風で砂が巻き上がり無理と判断、垂直の断崖を上昇すると、突如ゴルフ場の広い駐車場が見えた。車は一台もなく二度旋回し18時過ぎ思い切って着陸した。

急いで手持ちの給油缶からアブガスを給油、夕暮れが近づいており宮古島空港と連絡、事情を説明しながら石垣島に向け離陸、那覇管制官より宮古島空港に着陸しない理由についてクレーム無線が入る。石垣まで無給油で飛ぶリスクを懸念されたのかもしれない。

最終目的地、雲に覆われた薄暗い石垣島が視界に入ってきた。近づくにつれ天候が悪化、石垣空港、赤石方向ともに雨雲、島全体が雲に包まれた怪しげな雰囲気、気持ちが焦る中、突如伊原間の雲が切れて太陽が顔を出した。私たちの石垣島到着を祝福してくれているかのような美しい夕陽だった。川平ベイに向けて飛行。左旋回しヒュッタビーチを目指す。300フィート上空はまだ明るいが降下するにつれて夕闇が近づき、やっとヒュッタの赤瓦の我が家を目視できたときはほっとした。那覇管制官より国立公園への着陸はできないとの連絡が度々入る。洋上着水の連絡をとり、一旦着水、高度10m以下は飛行と見なされないホバリングにより合法的にヒュッタ海岸私有地に着陸した。

石垣島ヒュッタ海岸着陸は19時23分、日没は19時35分、日没12分前ギリギリの到着であった。

沖縄本島 首里城上空

辺野古 偵察飛行

那覇から石垣島 411km 

那覇でも手続きに時間を要し、1時間を費やした。16時29分那覇空港を離陸、小さな島らしい影(島の名前は不明)を右手に見ながら、南西に進路をとり350フィートの低空で波を楽しみながら飛んだ。問題は宮古島。那覇から宮古島まで220km那覇から西は教官にとって未知の空域。

 

次第に風が強くなり、海面は白波が増え、ヘリのスピードが大幅にダウン、なんとしても日没までに石垣島に着かなければならない。焦る気持ちを乗せて1時間半以上飛行したころ、思ったよりも右方向に宮古島が見えてきた。宮古島空港に着陸する時間的余裕はない。海岸に着陸を試みるがローターの風で砂が巻き上がり無理と判断、垂直の断崖を上昇すると、突如ゴルフ場の広い駐車場が見えた。車は一台もなく二度旋回し18時過ぎ思い切って着陸した。

無人のゴルフ場

急いで手持ちの給油缶からアブガスを給油、夕暮れが近づいており宮古島空港と連絡、事情を説明しながら石垣島に向け離陸、那覇管制官より宮古島空港に着陸しない理由についてクレーム無線が入る。石垣まで無給油で飛ぶリスクを懸念されたのかもしれない。

突如姿を見せた石垣島伊原間に沈む太陽

最終目的地、雲に覆われた薄暗い石垣島が視界に入ってきた。近づくにつれ天候が悪化、石垣空港、赤石方向ともに雨雲、島全体が雲に包まれた怪しげな雰囲気、気持ちが焦る中、突如伊原間の雲が切れて太陽が顔を出した。私たちの石垣島到着を祝福してくれているかのような美しい夕陽だった。川平ベイに向けて飛行。左旋回しヒュッタビーチを目指す。300フィート上空はまだ明るいが降下するにつれて夕闇が近づき、やっとヒュッタの赤瓦の我が家を目視できたときはほっとした。那覇管制官より国立公園への着陸はできないとの連絡が度々入る。洋上着水の連絡をとり、一旦着水、高度10m以下は飛行と見なされないホバリングにより合法的にヒュッタ海岸私有地に着陸した。

石垣島ヒュッタ海岸着陸は19時23分、日没は19時35分、日没12分前ギリギリの到着であった。